大判例

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東京高等裁判所 昭和59年(ネ)1000号 判決

控訴人 甲野松子

右訴訟代理人弁護士 佐治融

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 佐野榮三郎

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じて被控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、次のとおり附加するほかは、原判決事実摘示と同一である(但し、原判決三枚目表六行目の「否認する。」の次に「昭和四八年に至るまで控訴人と太郎との間に個人的交際は全くなかった。」を加え、同裏四行目の「被告は右事情をきいて」を「控訴人は、昭和四八年正月仲人の乙山五郎、丙川十郎らから太郎との結婚話を持ち込まれ、右事情を聞かされて、同年二月中旬結婚を承諾し、同年三月初旬右仲人を立てて仮祝言をしたうえ」と改める。)から、これを引用する。

1  控訴人

仮に控訴人が太郎と同棲し内縁関係に入った行為が不法行為となるとしても、太郎から被控訴人に対し、離婚に伴う財産分与及び慰藉料の趣旨で少なくとも別紙物件目録記載の各土地(以下「本件土地」という。)の二分の一の持分が譲渡されており、これには、太郎と控訴人との関係を含めて一切清算する趣旨が含まれているのであるから、被控訴人の本件慰藉料算定にあたってはこの点を斟酌されるべきである。

2  被控訴人

右主張のうち、太郎から被控訴人に対する離婚給付の趣旨、内容は争う。

三  《証拠関係省略》

理由

一  被控訴人と太郎が昭和一五年二月一八日婚姻し、その後二人の間に夏子、秋子が出生したこと、太郎と控訴人との間に昭和四九年二月二四日松枝が生まれたこと、太郎が昭和五四年一〇月一六日被控訴人と協議離婚し、同月一八日控訴人と婚姻したことは、当事者間に争いがない。

二  《証拠省略》に前記当事者間に争いのない事実を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  被控訴人は、太郎と、昭和一五年二月一八日結婚式を挙げ、同年五月二五日婚姻届出をして夫婦となり、両名間に四人の子が出生したが、内一人は幼児期に死亡し、長女春子、二女夏子、三女秋子(昭和二五年一二月二〇日生)の三人の女子はいずれも成人し、既に結婚している。

2  太郎は、被控訴人との結婚当時から建設会社に勤めていたが、戦後仕事の関係で長岡、秋田、大阪等を転々としたのち、昭和三三年東京に転勤となり、東京都調布市深大寺に土地を購入し、居宅を構えるに至った。

3  被控訴人と太郎とは、被控訴人が裕福で太郎が貧乏という生育した境遇が異なったうえに、被控訴人は細かく、太郎は大ざっぱで、性格も喰い違っていたことなどから、夫婦の関係は結婚当初からとかく円満を欠き、戦後は、被控訴人が転勤先の太郎の折角用意した居宅についてしばしば不平を述べたり、太郎が脊髄カリエスの弟に金銭援助をしていたことを被控訴人が気に入らなかったり、また、太郎にも女性関係で被控訴人に疑われ、酒を飲んでは暴れるなどのことがあったりして、次第に夫婦間の溝が深まり、昭和二七年以降の前記大阪時代には初めて二人の間に離婚話が出るに至ったが、更に昭和三三年頃には被控訴人から離婚話を持ち出したことさえあり、そして、昭和三七年に及んで、太郎が名古屋に転勤するに際しては、二人は、性格があわないので子供が全部嫁いだら別れよう、その方が平穏な老後が送れるのではないかと話合って、太郎は単身赴任し、被控訴人は深大寺の家にとどまって子供の養育に専念した。

4  その後太郎は、昭和四〇年に東京に戻り、昭和四七年六月定年退職し、さきに設立して甥に見させていた建設会社を自ら経営するようになった。ところで、その会社経営を始めた際、太郎は東京都深大寺の自宅を営業の本拠とすることを考えていたところ、被控訴人から業者等が出入りするのが煩しいから他所でやるよう強く反対されたため、やむをえず、東京都世田谷区粕谷町に営業所を開かざるをえなかった。当初は太郎は自宅からこの営業所に通っていたが、仕事の関係上などのため、右営業所に寝泊りすることが多くなり、ついに同年夏ころ、自宅に被控訴人を置いたまま右営業所に別居するに至った。しかし、被控訴人は、この別居についても将来に全然希望を持たず、太郎の生活を放置していた。

5  他方、控訴人は、高校卒業後家事手伝いをしていたが、昭和三九年一〇月頃から約半年間ほど名古屋市所在の建設会社で臨時に受付の仕事をしていた。太郎は、当時名古屋勤務中で、時折右の建設会社に取引関係で立ち寄って控訴人と顔見知りとなったが、当時はそれ以上の個人的交際がなかった。しかし、太郎は、控訴人の父と同業者仲間であったため、同人から控訴人の嫁入先を探していることなどを話されていたので、当時右営業所での生活にどうしても女手が必要であったこともあって、昭和四八年正月に至り、乙山、丙川の両知人を介して控訴人の両親に控訴人と結婚したい旨を申し入れた。控訴人は当初この申入れを断ったものの、太郎が妻の被控訴人とは性格があわず、すでに名古屋に転勤する際末娘の秋子が結婚すると同時に離婚する話になっている旨を右両名から、次いで太郎自身からも説明され、更に秋子はすぐ結婚するとも話されるに及んで、四十歳をすぎた自分の境遇などを考慮したすえ、同年二月にこの申入れを受け入れた。反対の強かった控訴人の母も結局承諾した。かくして控訴人は、同年三月初旬太郎の迎えを受けて上京し、控訴人側は両親、太郎側は甲野竹夫夫婦、それに、仲に立った乙山、丙川ら立会のもとに、前記営業所で太郎との仮祝言を挙げ、同所で同棲を始めるに至った。なお、この仮祝言の頃あった秋子の結婚話は、控訴人の期待に反してその後まもなくこわれてしまった。昭和四九年二月二四日太郎と控訴人との間に女子松枝が出生し、太郎は同年三月一六日同女を認知した。

6  被控訴人は、太郎との別居後まもなく、太郎が名古屋から女性を連れて来て同棲していることを知ったが、それが控訴人であることは昭和五〇年二月頃初めて知った状態で、それと分った時点でも太郎にはもとより控訴人に対しても何らの苦情や抗議を申し出るでもなかった。ところが、被控訴人は、昭和五一年夏頃、秋子の縁談がまとまり、仲人から松枝が認知されたままの戸籍の状態では秋子の結婚に支障があるとの指摘を受けるや、直ちに太郎に離婚の申入れをした。しかし、太郎は、むしろ秋子のためにもすべて甲野の姓のままが良い、結婚がすんだら直ちに離婚の手続をすると述べたところ、被控訴人も諒承し、この時点では離婚に至らなかった。そして、秋子の婚姻届出は昭和五二年二月九日になされたのであるが、今度は被控訴人は太郎の度重なる申出にもかかわらず、離婚の承諾を延引し、昭和五四年一〇月に至り、ようやく離婚が合意され、同月一六日その届出がされた。そこで、太郎は、同月一八日控訴人と婚姻の届出を了し、現に松枝と共に調布市染地で共同生活を営んでいる。

7  被控訴人は、離婚に伴う財産給付として太郎から本件土地とその地上の住居を全部譲渡されたものとしたのに対し、太郎は本件土地の二分の一の持分を譲渡したにすぎないと主張して争いが生じ、太郎から被控訴人及び長女春子並びにに同女の夫らに対し幾つかの訴訟が提起され、現に係争中である。ところで、被控訴人は、この争訟の生ずるまでの過程においては、控訴人が太郎と結婚するに至ったことを仕方がないとして不問に付していたところ、右訴訟が提起されると、控訴人がかげでたきつけて太郎にこれを起こさせたものと判断して、昭和五六年八月本件訴訟を提起するに及んだ。しかし、右訴訟が控訴人の仕掛けによるものとの証左はない。

以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

三  前記認定事実によれば、被控訴人と太郎との婚姻関係は、控訴人と太郎とが同棲生活を始めた当時、すでに破綻に瀕しており、離婚が単に末娘秋子の結婚をまつだけの形骸化した存在にすぎなかったこと、そして、右の事態を招来したことにつき控訴人は何らの関係をもたなかったこと、控訴人は、太郎から太郎と被控訴人との話合いにより、秋子の結婚後は離婚することになっており、秋子の結婚も近いと聞かされ、これを信じて太郎との結婚にふみきり、ささやかながら関係者立会のうえ仮祝言を挙げて同棲生活に入ったこと、被控訴人と太郎との右の話合いも秋子の結婚話もいずれも事実であったこと、被控訴人は太郎と離婚するに至ったにつき、控訴人の所為による精神的苦痛なるものを蒙ったふしはうかがえず、むしろ、離婚後太郎との間で離婚給付をめぐる争訟が生じたことによりその仕掛人は控訴人であると妄断して、本件慰藉料請求に及んだことを知りうるのであって、そうである以上、控訴人には、形式的にいえば重婚的内縁関係に入ったことについての落度は免れないとしても、他面これに因り被控訴人の守操請求権や家庭の生活の平穏を違法に侵害したとたやすくいうことはできず、いわんや、被控訴人に慰藉されるに値する精神的苦痛があったとと認めることには躊躇せざるをえない。

四  以上のとおりであって、被控訴人の本訴請求はこれを認めるに由なく、これと異なる原判決は相当でないから取り消し、被控訴人の請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 髙野耕一 裁判官 根本眞 成田喜達)

〈以下省略〉

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